1960年(昭和35)大阪府布施市(現東大阪市)に生まれる。
晶文は「まさふみ」と読む。 権威ある命名師のご宣託(らしい)。
その割には昌文と誤記されたりアキフミと誤読され、ことあるごとに
「マサは日が三つ、水晶の晶です」と説明しなければいけない……。
しかし「まさふみ」の名は気にいっている。
親しくしていただいている編集者からはショーブンと呼ばれること多し。
これには、まったく抵抗ないし、むしろ文士らしくてうれしい。
誕生後すぐ父母が離婚。 以降は母方で暮らす。
母方の祖父はミシン部品製造業を営み、
百人近い工員を抱え羽振りがよかった。
父は薬剤師、地元では名の通った老舗の薬局を経営していた。
父の兄弟には理学博士や医師と理系揃いとか。
この血脈がいっこうに私に受け継がれていないのはナゼか?
理数系はさっぱり、まったく、とことんダメだった。
父のことは母から写真をみせられ顔を知っていたけれど、
父方の家族のことはなにも覚えていない。
ただ、父の兄のことは母からきき強烈なショックを受けた。
伯父は長崎医大に学び、8月の熱い日もかの地に留まり……
原爆のために命を落としたのだった。
近畿大学附属幼稚園から近畿大学附属同小学校に。
一人っ子のおばあちゃんっ子、安く値踏みされても仕方あるまい。
家族は母に祖父母、叔母、叔父のほかお手伝いさんがいた。
家の前には祖父の会社の寮があり、まわりは大人ばかりという環境に育つ。
文学少女がそのまま大人になってしまった母の影響で読書に親しむ。
母から与えてもらった絵本は幼少時のかけがいのない友人だった。
『かものプルッフ』『りすのパナシ』『かわせみのマルタン』――リダ・フォシェの文章とF・ロジャンコフスキーの絵、いしいももこの訳による名作たちは本の閉じ目がほどけるほどページをめくった。
文学への親しみだけでなく、動物に興味を
もつようになったのも、これらの秀作のおかげ。
他にもバージニア・L・バートンの『せいめいのれきし』、鉛筆画が秀逸なロバート・マックロスキー『かもさんおとおり』……まだまだたくさん……『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』『ちいさいおうち』。 『三びきのやぎのがらがらどん』『シナの五にんきょうだい』『ラチとらいおん』……福音館、ひかりのくにといった書店の絵本をわんさか与えてもらい、もりもり読んだ。 一日中、ずっと絵本を開いていた。
もう少し大きくなってからは『エルマーとりゅう』や『マグヌス』シリーズを飽きずに読んでいた。 良書に囲まれた生活、この点は母に深く感謝!
原っぱや田んぼにいっては(1960年代半ばの大阪には
まだまだ〝自然〟が残っていた)バッタやチョウ、カナヘビ、カエルなどを
捕らまえては生物研究に余念がなかった。
まだ幼体のワニを飼育していたのもこの頃のこと。
爬虫類や両生類が好きだったのは恐竜に興味をもっていたから。
小学校時代は、口が達者なうえマセていたので
武闘派とは違うタイプのガキ大将となる(問題児ともいう)
アーネスト・シートン、トーベ・ヤンソン、北杜夫らを耽読する。
ケストナーの『飛ぶ教室』も何回ページを繰ったことか。
(右側のビジュアル、弊衣破帽のハンサムは松高時代の北杜夫さんです!)
10歳くらいからラジオを聴きはじめ、たちまち洋楽ポップスに夢中。
『霧の中の二人』『魔法』『カルフォルニアの青い空』『ブラックマジックウーマン』『黒い炎』『黒いジャガーのテーマ』『ノックは三回』『男の世界』『ナオミの夢』『片想いと僕』などなど……
オンエアーをオープンリールに録音するという荒業で堪能。
この頃の洋楽体験が現在に至る「ブルージーで汗まみれ、リズムを強調した〝どついたろか〟的な品のないファンクテイスト」大好きの土台になっている(と思う)。 その一方ではメロー&スイートなメロディーに弱いという軟弱な側面も。
10歳にして「将来は作家になる」と高らかに宣言。
当時の作文を読みかえすと北杜夫のエピゴーネン。 でも「大人みたいな文章だなあ」とヘンに感心してしまう。 これはとりもなおさず、北さんみたいな文章を書いていきたいという想いでもあった。
母が祖父の会社の事務職として働いていたので、幼少時はずっと祖母に育ててもらう。 母性を想うと、十全の愛情を惜しむことなく注いでくれた祖母が浮かんでくる。 反対にお互い自己主張が強すぎる母との関係性はいまだにビミョーな感じ。 また絶対的家長として君臨していた祖父とも折り合いが悪かった(偉そうな人にはつい反発してしまう傾向アリ)。
祖父が工場をたたみレストランや喫茶店、アパート経営に転身。 水商売に身をおく大人の裏面を垣間みる。 そしてますますマセる。